荘子に収められている故事に 由来する言葉で、
木彫りの鶏のように全く動じない闘鶏における最強の状態をさす。
「由来」
故事では紀悄子という鶏を育てる名人が登場し、
王からの下門に答える形式で最強の鶏について説明する。
紀悄子に鶏を預けた王は、10日ほど経過した時点で仕上がり具合について下問する。
すると紀悄子は「まだ空威張りして闘争心があるからいけません」と答える。
更に10日ほど経過して再度王が下問すると「まだいけません。
他の闘鶏の声や姿を見ただけでいきり立ってしまいます」と答える。
更に10日経過したが「目を怒らせて己の強さを誇示しているから話になりません」
と答える。
更に10日経過して王が下問すると「もう良いでしょう。
他の闘鶏が鳴いても、全く相手にしません。
まるで木鶏のように泰然自若としています。
その鳥の前に、かなう闘鶏はいないでしょう」と答えた。
上記の故事で荘子は道に則した人物の隠喩として木鶏を描いており、
真人(道を体得した人物)は他者に惑わされること無く、
鎮座しているだけ衆人の範となると説いている。
※今年は鳥年です・=・=。
私も7月で62歳になります。
今まで、戦って勝ち取って行くのが仕事と思っていましたが、
正月に荘子の書を読んで「木鶏」のことが上記のように書いてありました。
何かここに人間として生きる意味が隠されている事に気がつきました・・・。
このことをモットーに今後の人生を生きて行こうと思います。